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41歳クリロナ、「まだ終わらない」W杯6大会連続選出。

41歳のクリスティアーノ・ロナウドが、またW杯に出る。

「さすがにもういいんじゃない?」という空気が少し漂う一方、「いや、やっぱり最後まで見届けたい」と思ってしまう。

ついこの前まで、ACL決勝で負けて表彰式をすっぽかした面倒くさいスターとして叩かれていた男が、史上初のW杯6大会連続選出。

この落差、この温度差こそが、ロナウドという人間ドラマの濃さだ。

クリスチャーノ・ロナウド

「41歳で6大会連続W杯」のインパクト

W杯北中米大会に臨むポルトガル代表メンバーが発表され、ロナウドは史上初の「6大会連続選出」。

06年ドイツで10代の新星として登場し、4位。

そこから10、14、18、22年と出続け、前回カタールでは、5大会連続ゴールまで記録。

気づけば、代表通算226試合・143得点、キャリア通算971ゴールという、もはやゲームの世界みたいな数字を叩き出しているロナウドですが、それでも彼には、ひとつだけ取りこぼしたタイトルがある。

W杯優勝。

ポルトガルは今大会、1次リーグでコンゴ民主共和国、ウズベキスタン、コロンビアと同組となっていて、「いけるんじゃないか?」と期待が膨らむ一方、「ロナウドが本当に“最後のピース”になれるのか」という不安もつきまといますね。

ロナウドの直近のニュースといえば、サウジのアルナスルで戦ったACL2決勝、G大阪に0-1で敗れたあと、悔しさからか表彰式をキャンセルして物議を醸していました。

「プロとしてどうなの?」 「負けた相手へのリスペクトは?」

そんな批判が飛び交う一方で「41歳になっても、ここまで本気で悔しがれるのは逆にすごい」と、どこか感情移入する声もチラホラと。

完全無欠のヒーローにはなれない。

でも、負けて子どものように荒れる姿に、人間としてのロナウド”が透けて見え、そのアンバランスさが、好きな人と嫌いな人をはっきり分けてしまうんでしょう。

インスタの一言ににじむ「まだ燃えている」感

代表選出が決まったあと、ロナウドはインスタでこう書いている。

「いつもと変わらぬ情熱と誇り」「全力で行こう、ポルトガル」

ものすごくシンプルで、特別な名言でもないが「いつもと変わらぬ」という一言が、41歳の今だからこそ重い。

10代でスターに祭り上げられ、20代で世界のトップに立ち、30代で王座を守り続け、40代でまだW杯に行く。

普通なら、どこかで「もう十分やった」と言い訳できたはずなのに、それでもサウジでプレーしながら、国のために走ることをやめない。

SNSで叩かれ、好感度が上下し、メッシとの比較に疲れ切ってもなお、「情熱」を自分の言葉として使えること自体が、ちょっと異常だし、だからこそ目が離せない。

SNSがざわつく「レジェンド世代の最後のW杯」

今回のW杯は、ロナウドだけの物語ではないし、メッシ、オチョアも選出されれば、同じく6大会連続出場になるようです。

SNSには「学生の頃から見てた選手が、まだW杯にいるの、普通に泣きそう」「自分の老いを突きつけてくるメンバー発表」と、“時代”を感じてしまうコメントがあって、もはや彼らは、ただのサッカー選手ではなく、「自分たちの青春と一緒に走ってきた顔」になっていますよね。

応援してきた時間の長さが、そのまま感情の重さになっているから、好プレーにも、悪態にも、いちいち心が揺さぶられてしまうのではないでしょうか?

そもそも、ロナウドの話題は、たいてい両極端で「史上最高レベルの記録」「信じられないスタッツ」か、「ド派手なリアクション」「やりすぎな振る舞い」と、どちらも感情の振れ幅がえぐい。

完璧なスターでいることを求められながら、人間としての未熟さやエゴも、隠しきれずに世界配信されてしまう。

だからこそ、見る側も問われる。

  • それでも、この人を応援したいか?
  • 好きと嫌い、どっちの感情でこのニュースを見ているのか?

W杯6大会連続選出という記録は、もちろんすごいことだけど、多くの人が心を動かされている本当のポイントは、“ここまで来てもまだ、きれいに終われないスター”の姿なのかもしれない。

41歳で6度目のW杯。

ACL決勝での表彰式ボイコットという未消化のモヤモヤを抱えたまま、それでも「いつもと変わらぬ情熱」でピッチに立とうとするクリスティアーノ・ロナウド。

記録の話だけなら、一行で終わるニュースだけど、その裏には、「まだ諦められない男」と「まだ見届けたいと思ってしまう私たち」の感情が、がっつり絡み合っている。

初優勝を狙うポルトガルのエースとして、最後に笑うのか、またしても大きな喪失感を残すのか。

いずれにせよ、このW杯でロナウドを見届けること自体が、自分の中の“サッカーを見る時代”を締めくくる行為になるのかもしれない。